卑弥呼宮殿か 最大建物跡 東京新聞の記事です。

纒向遺跡、3世紀前半 邪馬台国畿内説」弾み


 
 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、三世紀前半としては国内最大の建物跡
が見つかり、市教育委員会が十日、発表した。



 女王卑弥呼(生年不明〜二四八年ごろ)の時代と重なり、邪馬台国畿内説の専門家は「卑弥呼の宮殿ではないか」
と指摘。畿内説を後押しする有力な史料で、九州説との間で続く所在地論争に大きな影響を与えそうだ。
 市教委は、床面積約二百三十八平方?の高床式建物と推定。九州説の候補地の一つ、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)で
出土した建物跡(約百五十六平方?)をしのぐ規模だった。
 すぐ西側で一九七八年と今年二〜三月に見つかった三棟と合わせ、計四棟が中心軸をそろえて東西一直線に整然
と並んでいたことも判明。
 石野博信兵庫県立考古博物館長(考古学)は「畿内説に立てば、卑弥呼の宮殿とみていいだろう。これほど計画的
に配置された建物郡は同時期に国内で例がない」と指摘。これに対し、九州説の研究者は「遺跡全体の発掘が進ん
でおらず、今回の発見だけで卑弥呼と結び付けるのには無理がある」と反論している。
 確認された大型建物跡は南北一九・二?、東西六・二?以上。直径約三十?の柱が使われたらしい。柱穴がさら
に西側に続いているとみられ、市教委は建築構造などから東西一二・四?と推定した。
 床を支える束柱跡もあり、黒田龍二神戸大准教授(日本建築史)が市の依頼で復元した結果、高さ約十?の入り母
屋造りと想定された。市教委は「纒向遺跡の中枢部が明らかになった。中心的な人物がいたと考えて間違いない」
としている。
 中国の歴史書魏志倭人伝」は、邪馬台国について「女王の都する所」と記述。「宮室、楼観、城柵」が厳かに
設けられていたとする。
 卑弥呼がニ三九年、魏の皇帝から親魏倭王に任じられ、金印を授かったことや、邪馬台国への道のりなども紹介
されているが、所在地は明らかになっていない。
 纒向遺跡は巨大な運河跡や各地の土器が出土。普通の集落とは異なる「都市」との見方があり、卑弥呼の墓との
説がある箸墓古墳もある。
 現地説明会は十四、十五日の午前十時から午後三時(雨天中止)。JR駅巻向駅のそば。



発掘中枢部の5% 全容、調査は不可欠



解説
 邪馬台国の女王卑弥呼が活躍した三世紀前半の大型建物跡が、奈良県纒向遺跡で発見された。この時期と
しては国内最大級で、邪馬台国畿内説の強い後押しとなる。しかし発掘したのはごく一部分で、全体像を明ら
かにするにはさらなる調査が必要だ。
 今回発掘したのは、遺跡の中枢部付近とみられるが、南北一・五?、東西二?のうち、わずか5%にすぎない。
 魏志倭人伝によると、邪馬台国には「宮室、楼観、城柵があり、人が兵器を持って守っている」との記述が
あるが、佐賀県吉野ヶ里遺跡で楼観などが見つかっているのに対し、纒向では未発見のまま。
 邪馬台国の所在地をめぐっては畿内説と九州説の間で長年、論争が続いている。畿内説にさらに説得力を持た
せるためには、今後も発掘データの地道な積み重ねが欠かせない。(共同・野村充和)






 
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