関が原の戦いは、慶長5年9月15日のことでした。

昨日の決着歴史ミステリー(12チャンネル)は、天下分け目の戦いと言われる関が原の戦いで、豊臣秀吉の妻
おねは、何故、徳川家康に味方したのかというものでした。



番組では、2案紹介していました。一つは、おねの実家である木下家(岡山県)を守るためというもの。
もう一つは、家康に騙されたのではないかという案で、視聴者が番組中に投票することで、この謎に決着を
つけるというものです。



番組では、おねが、まだ子供だったトラ(加藤清正)とイチ(福島正則)のケンカをたしなめていました。また、
秀吉とおねの間には、子供がいなかったことから、木下家から養子(後の小早川秀秋)を迎え、秀吉の後継者
として育てていました。ところが、側室の淀が秀吉の子(秀頼)を生んだことから、秀秋は養子に出されて
しまいました。淀に実権を奪われたおねは、大阪城を出て京都で暮らすことにもなりました。



京都にいたおねを、家康は度々訪れていたそうです。家康は、おねの影響力の大きさを十分に承知していて、
自陣営の戦力拡大のために、おねに取り入っていたのかも知れません。一方、おねは、家康の天下人としての
器量を見抜いていたのかも知れません。秀吉亡き後のおねにとっては、実家の木下家の存続を考え、持てる
影響力を行使したのではないかと考えた人が多かったようです。



関が原の戦いでは、加藤清正福島正則、そして、小早川秀秋も家康側に加わりました。木下家は、その後
400年も続き、おねの子孫も登場していました。関が原の戦いそのものは知っているものの、その背景にある
ものは極めて漠然としたもので、きちんと把握してはいませんでした。



関が原の戦いは、慶長5年9月15日のことでした。
西暦に置き換えると、月日が変わってしまうかも知れませんが、9月15日というのは、ホンジュラス始め中米
各国の独立記念日ですので、この日には、日本では、関が原の戦いがあったのだと新鮮な思いがしました。






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