JICAシニア海外ボランティアとしての最終日です。




帰国報告会は、竹橋で行われました。
このビルのロビーにある時計は、大きな丸時計から長い振り子が伸びていました。見えないはずの時間が、
ここでは見えるようでした。地下鉄の改札のような入口で、受付で渡されたビジターパスを利用します。



約20分の個人面談でした。これまでの2年間を報告しました。



定年後に、JICAシニア海外ボランティアとして、このような素晴らしい2年間が待っていようとは、思ってもいま
せんでした。選んでいただいたJICA関係者の方々や、お付き合いいただいた皆様に、深くお礼申し上げます。



結論から先に申し上げたいと思います。この2年間は、一言では、到底振り返えることが出来ませんが、
二言ですと、楽しかった、嬉しかった、ということになります。



赴任先は、中米の中央に位置しているホンジュラスで、要請の内容は、
ホンジュラス観光庁のマーケッティング部での観光振興でした。



2年前の4月9日に担当調整員と一緒に、観光庁へご挨拶に行き、1週間後の16日が、活動初日となりました。
ただ、シニア海外ボランティアが未知数ということで、半年間は、商品企画開発部でホンジュラスを把握する
ように言われました。また、商品企画開発部長から、郷に入れば郷に従えということと、観光庁では、自分の
家にいると思って下さいとアドバイスされました。



課長さんから、観光庁のバイブルとも言える観光戦略のCDを渡されました。印刷にすると2センチほどありました。
単語が分かっても、文になると意味がとれなかったり、何故この言葉があるのかと思ったら地名だったり、地図と
見比べながら、読み進みました。何だか留学させていただいたような気分でした。



ところが、この観光戦略を読んで、観光庁では、まだ日本やアジアのマーケットまでは、考えが及んでいないこと
が分かりました。周りの職員から観光庁での感想を求められる度に、すごく良くしてもらっているので感謝して
います。ただ、観光戦略を見る限り、自分が必要とは思えませんが、既に赴任してしまっていますので、何か
お役に立ちたいと思っていますと応えました。



着任直後は、まだ時差の影響もあり、特に昼食後は眠くなってしまい、実際、寝ていたかも知れません。
観光庁には、私より年齢が上の人は誰もいません。それに、ホンジュラスでは、年配者に対して敬意を払うような
ことがあるのか、誰も、とがめる人は、いませんでした。しかし、どうも眠っていた時間があるように思えました
ので、折に触れて、部長さんから、自分の家にいる積りでと言われていますので、と言い訳しました。



大学生の実習生とホンジュラスの観光魅力カタログを改定するように言われました。これも、ホンジュラスを把握
する一環でした。実は、合格通知を受けた時点で、観光振興に役に立ちそうな新聞記事を、出発直前まで2冊の
スクラップにして持参していたのですが、最後まで、この出番は、ありませんでした。
結果的に、ホンジュラス観光振興の考え方から、相手が望むままにと、気持を切り替えていたことになります。



学生時代に、自分のスペイン語の年齢を聞いた時、アルゼンチン人から5歳と言われていました。
その後、スペイン語とは、ほとんど縁がありませんでしたので、5歳の子供が大学生と一緒に作業できることは、
少しは成長した気分に思えました。大学生は、読むのを面倒がっていました。その部分を担当し項目毎に整理
しましたが、改定するためには、確かなスペイン語の作文力が必要です。その分は、大学生に受け持ってもらい
ました。観光魅力カタログは、5センチファイル2冊分になりましたが、補い合うような形で作業できました。



一方、観光庁の人の名前を、全員覚える積りでデジカメを持って来ていました。紹介される度に写真を撮りました。
ところが、写された人から、メールして下さいと頼まれてしまいました。デジカメを撮るのも初めてなら、メール
などしたことがありません。どうやって写真をパソコンに取り込むのか見当もつきませんでした。いつも2つのパソ
コン画面で仕事をしている人がいましたので、その人に、やり方を教えてもらいました。



名前を覚えているところに、課長さんが、やって来て、一緒に見ていたのですが、この人は違うと言われた人が
いました。こともあろうに、マーケッティング部長宛に、名前は同じなのですが、別な人の写真を送ってしまって
いました。



早速謝りに行ったところ、全く意に介することなく、逆に、6月には、第3回コパン国際学会が予定されているので、
参加するように言われてしまいました。



商品企画開発部長の了解も得て、早い時期に1週間の出張ができたことは、とても幸運でした。
ここで、観光庁の全部門の人達と知り合うことができました。写真班として、写真を900枚以上撮り、CDやDVDに
してもらって渡しました。



活動当初は、持参したデジカメが活躍してくれました。観光庁主催の観光会議や、新ロゴのお披露目などのイベント
で、写真をとるように依頼されました。そこで、民間の旅行機関のカマラ・デ・ツゥリスモの皆さん始め、業界関係
者の方々と知り合うことができました。カマラ・デ・ツゥリスモは、日本旅行業協会(JATA)のような所ですが、
旅行会社だけではなく、ツアーオペレーター、航空会社、ホテル、レストラン、レンンタカーなど、旅行関連全て
に関わっている民間機関で、観光庁と共に、ホンジュラス観光の車の両輪のような所です。写真をCDにして届けま
した。



半年後、マーケッティング部へ異動することになりました。
マーケッティング部長から、観光庁内部資料の観光写真カタログを整理するように言われました。観光写真カタログ
には、人物や風景、イメージ写真などが、ごったになっていました。取り掛かる前に、マーケッティング部長に、
一番大切なイメージ写真を最初にして、それぞれ項目毎に整理したいと、先ず考え方を説明し、了解を得ました。



観光庁はパソコン社会で、観光庁への出入りだけではなく、各フロアへ行くのにも、ICが組み込まれた身分証明書
を利用します。また、連絡など全てが、パソコンを通じて行われています。私にとってのパソコンというのは、
ワープロと同列ですので、同じ画面にある写真を、どのように並び替えるのか、教えてもらわなければなりません。
教えてもらう相手が1人では、その人に申し訳ないので、他に教えてもらえそうな複数の人を選びました。この時点
では、自分にとって1番不得手なパソコン操作が、活動の主体となったのですが、反面、パソコンが出来ないことで
周りにいる人とのコミュニケーションを図ることが出来ましたので、何とも不思議な思いをしました。



恐らく、マーケッティング部長は、私が仕事に対して、どのように考え、どのように進めていくのかを見たかった
のかも知れません。それ以後は、具体的な仕事の指示は全くありませんでした。



JICAホンジュラス事務所での観光部会で、日本人観光客誘致の方針が打ち出されましたので、マーケッティング部長
に、観光庁での活動目標も、それに合わせることを説明し、了解を得ました。



健康診断一時帰国で日本に戻った際、在日ホンジュラス大使館を表敬訪問しました。参事官から、奥様の英会話
サークルでホンジュラスについて話をするように頼まれて、日本人に対してホンジュラスでのことを英語で説明
しました。また、現役時代、懇意にしていただいた客先へ行き、ホンジュラスへの訪問を打診しました。
旅行業界の友人から、日本旅行業協会(JATA)で発行されている資料を紹介されて購入してきましたが、この資料
が、後日、観光庁の各部門長の了解を得て、組織を越えた日本マーケット研究プロジェクトを立ち上げることに
つながりました。一方、日本人にとっては、ホンジュラスは、ほとんど旅行先とは看做されていないと思えたため、
先ずホンジュラスという国を知ってもらわなければならないと思い、友人に頼んでブログを設定してもらいました。
日記をつける習慣があったことだけを頼りに、2008年2月15日以降、任期満了まで、日々更新しました。



後半は、日本マーケット研究プロジェクトなど、押し売りの期間だったと言えるかも知れません。
マーケッティング部長から、主要観光地へは、早い次期に是非訪問して欲しいと言われていて、活動目標もマーケッ
ティング部長と一緒にすり合わせて、設定していたのですが、出張予定を作成して提出したところ、予算がないから
と断れてしまいました。驚きましたが、予算がないと言わざるを得なかったマーケッティング部長も辛かったと思い
ました。交通費や宿泊費を伴う観光先を避けて、首都のテグシガルパや、首都から日帰り出来る観光スポットを訪問
することに切り替えました。マーケッティング部長に観光庁の車を利用する了解を取り付けて、車が空いている時を
見計らって訪問し、そこでの写真は、観光魅力カタログと観光写真カタログの改定につなげました。



また、広域研修では、ホンジュラス世界遺産コパン・ルイナスとエル・サルバドルへ出張する機会を得ました。
隣国とはいえ、ホンジュラスとの違いを知ることが出来ました。その時の中米7カ国のメンバーに、任国のお薦めの
観光コースと日程を知るためにアンケート調査させてもらい、ホンジュラスとの旅行コースの組み合わせの参考に
させてもらいました。また、このことから、青年海外協力隊やシニア海外ボランティアの皆さんのホンジュラス国内
旅行を始め任国外旅行での体験を教えてもらうために、アンケートをお願いしました。回答されたアンケートの内容
につきましては、帰国間際となりましたが、マーケッティング部長に、報告書を提出出来ました。



自分の任国外旅行では、憧れていたパンアメリカンハイウエイで、ニカラグアコスタリカパナマを訪問
しました。更に、ベリーズへも足を伸ばしました。



任国外旅行なのですが、気分的には出張のようなもので、ホンジュラスを単独で売り込むのではなく、中米の他の
国との連携を模索していました。観光庁始め、他の国にもセントラルアメリカとして、世界の観光市場にアピール
するコンセプトがありますので、その下見のようでもありましたが、中米の魅力を知る旅となりました。



観光地先で気がついたことは、報告書にして、マーケッティング部長に提出しました。ホンジュラスの観光スポット
として比較的知られているダイビングのことを紹介する積りで、イスラス・デ・ラ・バイーアのウティラ島へ行く
ことにしたのですが、団塊の世代を誘致するためにも、同世代の自分が、ダイビングにチャレンジ出来るものなのか
試したいと思い、ライセンスを取得しました。



海亀の産卵を見るために太平洋岸へ向かったのですが、渋滞で停車していたところで大型トレーラーにぶつけられ、
車が大破して、病院へ向かう羽目になってしまいました。幸い、頭にかすり傷を負った程度のことで済みました。
運が良ければ、事故には遭わなかったのでしょうし、運が悪ければ大怪我や命を落としていたかも知れません。
観光庁の友人から、悪い雑草は死なないというホンジュラス独特の表現をもらいました。



INFOP(国立職業訓練機関)のヴァジェ・デ・アンヘレス校で活動している青年海外協力隊員から誘われて、土産品
の開発提案プロジェクトに、観光の立場から、参加しました。実際、青年海外協力隊員の皆さんとは、親子の年齢
差なのですが、優秀な若い人達と一緒に活動できたことも、嬉しく楽しいことでした。



日本にいたら経験することのないことを、たくさん経験させてもらいました。
KBC九州朝日放送にラジオ出演しました。INFOP(国立職業訓練機関)、COBRA(特務戦略コマンド)、ANAPO(国立
警察アカデミー)の3ヶ所で日本文化を紹介しました。また、INFOP(国立職業訓練機関)ヴァジェ・デ・アンヘレス
校と、ピコボニート財団主催のシンポジュームの2ヶ所で、講演する機会がありました。トルヒージョ市の近くの
サンタ・フェ市の市長さんから観光客誘致のためにアドバイスするようにとの招待を受けました。2年に1度のラ・
セイバカーニバルや、青年海外協力隊員による活動地域での日本文化紹介に参加しました。若くて優秀な皆さんと
交流する機会ともなりました。先輩のシニア海外ボランティアから頼まれて、ホンジュラス人に日本語の個人指導
をしました。米国に転勤されたため、途中で終わってしまいました。また、ほんの短い間でしたが、青年海外協力
隊員から頼まれて、日本人土曜学校で、二人の子供達に日本語を指導する機会を得ました。



恐らく、日本だとセクハラになってしまうのでしょうが、ホンジュラスでは、女性との挨拶は、頬にキスすること
になります。副大臣は女性です。果たして、副大臣に、そのような挨拶をしていいものなのか若干ためらいがあった
のですが、始めから、ホンジュラス式で挨拶していました。男性とは、握手なのですが、腕相撲でもやっている
のではと思うほど、いつも力が入っていました。



人とのコミュニケーションを、とても大切にします。そんなホンジュラスが、大好きになりました。
僅か2年間のことでしたが、かけがいのない故郷になったようにも思えました。



後任をお願いした時に、前日本大使が、観光庁の大臣に要請されていたことを知りました。
ただ、着任前に、肝心の日本大使は、帰任されていましたので、どのような意図を持たれていたのかは、分かって
いません。むしろ、そのままシニア海外ボランティアを受け入れられた観光庁大臣の寛大さに感謝しました。



後任要請には至りませんでしたが、観光庁全体で、送別会をしてもらえました。
中二階の階段下で、タケアーダというタコスのような昼食が、その場で作って振舞われました。また、これまで
自分が写してきた写真を材料に、私のビデオが作製されていて、皆さんの前で、披露されました。訪問したことの
ある地名に印をつけるように言われていたのは、このためでしたが、ちょうど50ヶ所ありました。人事課長さん
から、何か言葉をと言われました。前日は、国際協力庁で挨拶していましたので、それを利用させてもらいました。
挨拶の後、ヴァジェ・デ・アンヘレス特産の木製の木箱とレンカ族の布と陶器のプレゼントを渡されました。
木箱には、私の名前と、支援に感謝、観光庁の文字がありました。更に、ホンジュラスで覚えた言葉を披露する
ように促されました。中には、俗語も交じっていましたので、その都度、大きな笑いが起きました。この時に
挨拶させてもらった内容は、全職員にメールされました。この日は、青年海外協力隊員から教えてもらった折り紙
の鶴を約500用意して、大臣、副大臣始め全職員に挨拶させてもらった時に渡しました。



また、マーケッティング部長始め、観光庁大臣、商品企画開発部長宛に、ホンジュラスの観光振興に関して12項目
の提案書を提出しました。一方、マーケッティング部長からの評価レターでは、専門家気質、優れた日本文化大使
という言葉をいただきました。ホンジュラス観光庁での、とても良い記念になりました。



2007年に、二人の子供達が、休暇を合わせて訪ねて来てくれました。2008年には、妻も訪ねてくれました。
日本人観光客誘致で、影響力を行使できたのは、結局家族3人だけでしたが、ホンジュラスでの生活を知って
もらうことが出来ました。



ホンジュラスにいられるだけで楽しかったです。あっという間の2年間でした。観光庁では、いつも相手の仕事を
邪魔する形で、パソコンやスペイン語の添削などで、助けてもらっていました。多くの友人も得、これから役に
立てそうなところで、任期が終了となりました。



ホンジュラスは、距離的には、確かに遠い国ですが、いつも私の心の中にある国となりました。
また、ホンジュラスカリブ海は、本当に美しい海です。毎年、このセマーナ・サンタの時期には、国内だけでは
なく、海外から大勢の観光客が、ホンジュラスの北部海岸やイスラス・デ・ラ・バイーアカリブ海を訪れます。
何時の日にか、日本人観光客にも、このホンジュラスカリブ海の魅力を知ってもらいたいと願っています。



そして、このホンジュラスで、JICAという素晴らしい世界を知ることもできました。



ホンジュラスで2年間という貴重な日々の機会を与えていただいたJICA関係者の皆様に、改めて、深く、深く感謝
申し上げます。ありがとうございました。



午後は、新宿マインズの派遣支援センターで手続をした後、健康診断を受診して完了しました。








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