Dr.KEN ならではのコメントがありました。

確かに、今、このブログを通して、香港、日本、ホンジュラスが結ばれている
ことになります。



40数年前、拓殖大学ラテンアメリカ研究会で出会い、学生時代は、それこそ、
ほとんどの日々を共に過ごしました。



卒業後、それぞれが、それぞれに、それぞれの人生を歩んできました。 
グラ爺には、その名の通り孫がいて、香港で暮らして既に20年経ったと言います。
定年後の私は、JICAシニア海外ボランティアとしてのチャンスを与えられ、
2年間という限定期間ではありますが、現在、ホンジュラスで過ごしています。
Dr.KENは、仕事柄、横断的に友人とのつながりがあることから、皆を、
目配りしてくれています。 



気持の上では、あの頃と少しも変わりませんし、それほど昔のことのようにも
思えないのですが、40年という歳月は、グラ爺のように、結婚して、子供が生まれ、
その子供が結婚して、子供を設けたり、茗荷谷スペイン語を教えられていた当時の
浦和先生が、今月一杯で八王子で定年を迎えられたりする歳月でもあるようです。
また、同じようにスタートしているように見えながら、その生涯には、大きな差を
生じる期間でもあるようです。

 

Dr.KENから、町田氏の訃報を知らされたのは、このブログがスタートした
2月15日のことでした。
人の能力には差はないが、体力には差があると言った言葉や、好むと好まざるとに
関わらず、人は運命論的になっていくという言葉に、耳を傾けるようなことになる
のかも知れません。



最後に、町田氏に会ったのは、10数年以上も前のことです。
日本人離れした顔に、当時既に白髪で、ペルシャの王様のような風貌を、印象深く
覚えています。また、ニトログリセリンが手放せなくなってしまったと言っていた
ことを思い出します。会った直後、夜に、電話がかかってきたことがありました。
寝入りばなを起こされてしまったのですが、話している内容に一貫性がなく、
どうやら、夜の9時には寝ていると言うのが、本当なのかどうかを、確かめるための
電話だったようです。
本当だったんだ。屈託なく大笑いしていたのかも知れません。 
ラ研の第二部室だった喫茶店セルパンや、新宿の雀荘も懐かしく思い出されます。



Dr.KENは、自身のブログの中で、町田氏の日頃の生き方、覚悟の程を披露して
いましたが、彼なりに、彼が言うお釣の人生を精一杯生き抜いたことなのでしょう。
他の日なら、何時が命日だったのか、何時の日にか、記憶から消えてしまうことにも
なりかねませんが、私にとっては、自分の大きな変化の日と重なったこともあり、
忘れることの出来ない日となりました。



しかし、同期の死というのは、例え闘病生活が長かったとはいえ、やはり、そういう
年代に入っているのだということを、改めて自覚させられることにもなります。



あの当時、茗荷谷で一緒だった仲間が、今は、ほぼ子育ても終え、再び、連絡を
取り合えるようになってきています。お互いに、空白を感じることなく会えるという
のは、素晴らしいことです。会えないまでも、こうしたブログで話が出来ることも
嬉しいものです。



グラ爺のコメントに、ありがとうございますというのも他人行儀だし、さりとて、
今回のように、ありがとうでは、何も知らない人にとっては、素っ気無い印象を
与えかねません。親しき仲にも礼儀ありの方が、良いのかも知れません。



時差はあるものの、距離を感じることもなく、話ができると言うのは、何とも
不思議な世界にいるものです。





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