改装後のマヌエル・ボニージャ国立劇場へ行って来ました。




確か、昨年末からだったでしょうか、内装の改装工事に入っていました。
1月から2月にかけて一時帰国していましたので、しばらく行っていなかった
ことになります。どのように改装されたのかが楽しみでした。



観光庁に、テグシガルパの資料があり、マヌエル・ボニージャ国立劇場
ことが、数行紹介されていました。元々は、単に、国立劇場の名で、その後は、
文化の家と呼ばれていたようです。いつから、マヌエル・ボニージャの名が
ついたのかは、記されていませんでした。
建物は、ネオルネッサンス建築様式で、1912年に建てられています。
内装のデザインは、パリのアテネ劇場を思い起こさせると書かれています。



その資料の数行上には、大統領官邸が建設されたのは、1919年とありました。
国立劇場は、大統領官邸よりも、前に建設されていたことになります。
パリを意識していたり、文化の家と呼ばせたりしていたことなどを考え合わせ
ますと、当時から文化に対して並々ならぬ注力をしていた国なのかも知れません。



因みに、歴史年表では、この年、日本では、明治天皇崩御、中国では、中華民国
成立と書かれています。



写真は、入場前の様子から始まっています。始まりと終わりだけは確か
なのですが、途中は、前後してしまっているかも知れません。恐縮です。
雰囲気だけ参考にしていただければ幸いです。
入場料は、日本円で約600円。60歳以上の年齢割引は、ありませんでした。



入口で、簡素なプログラムを渡されました。
表側は、主催名、タイトル、出演者リスト。そして、裏側がプログラムに
なっています。見て、直ぐに理解できるのですが、いざ、これを日本語で
紹介しようとすると、ハタと困ってしまいます。



例えば、タイトルは、NOCHE CULTURAL“ECOS DE MI TIERRA”2008です。
2008年「我が故郷の響き」文化の夕べ、と紹介させてもらいますが、
ホンジュラス響け我が祖国、民族音楽競演文化の夕べ、など、人によって、
その紹介が異なってくるかも知れません。ホンジュラスでは、時々こうした
短い表現の中に、いろいろなものが凝縮されているのではないかと思える
ような言葉に、よく出会います。



会場には、最初の半年間の所属上長だったネリー部長が、ご主人と一緒に
来られていました。コンサートが開催される度に、観光庁内で呼びかけて
いましたが、ネリー部長は、観光庁で最初に、しかも、ご家族全員で来て
いただいた方です。記念に写真を撮らせていただきました。



以下の出演者の和訳は、指揮者のNさんから教えてもらいました。
CUADRO NACIONAL DE DANZAS FOLKLÓRICAS(国立民族舞踊団)
MARIMBA ALMA DE HONDURAS(国立マリンバ楽奏団)
BANDA DE LOS SUPUREMOS PODERES(ホンジュラス国立吹奏楽団)
BALLET FLOKLÓRICO GARÍFUNA(国立ガリフナ民族文化団)
GUILLERMO ANDERSON(シンガーソングライター、今年8月に、日本で
コンサートを予定されているそうです。)



この順で、1時間半の予定と聞いていたのですが、始まったのが、19時30分を
回っていて、終わったのは、22時20分頃でした。
タクシードライバーのフーリオ氏には、19時半に電話で遅れている旨を伝えて、
迎えに来てもらう時間を21時に変更しました。ところが全体で、1時間20分も
オーバーしてしまいました。慌てて電話して所在を尋ねたら、国立劇場前で
待っていてくれました。



フーリオ氏には、申し訳ないことをしてしまったのですが、この日の内容は、
国立劇場の名に相応しく、素晴らしいものでした。
華やかで、ユーモラスな国立民族舞踊団、ホンジュラスの代表的な歌を迫力
一杯に謳いあげていた、また、息がピッタリ合っていたマリンバ楽奏団、
すっかり定着した感のあるホンジュラス国立吹奏楽団は、3人の指揮者で演奏
されていました。



そして、国立ガリフナ民族文化団。
初めから終わりまで、圧倒的な迫力の踊りと歌でした。1年経ったところで、
やっと本格的な舞台を見ましたが、もっと日常的に見られるようにしたいものと、
強烈な印象を受けました。ギジェルモ・アンダーソンさんが舞台に登場すると
大歓声が起こりました。最後は、出演者が居並ぶ舞台に、観客を巻き込んで
国立劇場が一体になっていました。時間を気にしている人は、誰もいなかった
のではないかと、独り言い訳をしています。



前置きが長くなりましたが、昨日のマヌエル・ボニージャ国立劇場の舞台です。








人気ブログ・ランキングへ