中務先輩から、ウルグアイ時代の話を聞きました。

中務先輩は、以前、モンテビデオでも暮らされたことがあるそうです。
1983年、ウルグアイ国が、軍政から民政へ移行する前後の数年間だそうです。軍政と聞くと、何か圧政の
ような印象を受けてしまいますが、ストライキなどもなく、仕事面では、やりやすかったと言われました。



当時、マグロ関係の仕事をされていたそうです。マグロ漁船内には、20数名の漁師が暮らしていて、お互
いが、一旦、漁に出ると、親の死に目にも会えないという漁師としての暗黙の了解も覚悟もできていた
そうです。



ところが、民政に代わると、雇用を促進するために、半数の船員がウルグアイ人に代わったそうです。
元々漁師でもなく、船員や通信など、職種毎の労働者として、それぞれの組合に所属していたことや、
無線を私用に使ったり、プライベートなことで、船を港につけることを要求したりと、それまでの秩序が
崩れていったそうです。



奥様は、デジカメで写したモンテビデオやプンタ・デル・エステの写真を懐かしそうにご覧になっていま
した。中務先輩は、カルロス・パエス・ビラロ博物館の写真を見て、ピカソの弟子だったこともご存知で、
売店で何点か購入したと言われました。住居は、日本企業駐在員としての体裁もあり、高級住宅地の一角で、
カルロス氏の家の近くだったそうです。



何より驚いたのは、カルロス氏の息子が、その昔アンデス山中で遭難した航空機の数名生き残った内の一人
だったと教えられたことです。何時だったのかまでは覚えていませんが、アンデスの聖餐という週刊誌の
記事を思い出しました。遭難後、何日も経ってから救出されましたが、食料がない雪の山中で、どうして
生き延びることができたのかというマスコミの質問に対して、驚愕の返答が書かれていました。



雪山で生き残った数人の中には、医学生がいて、航空機事故で亡くなった友人達の脳を、蛋白質源として
剃刀で切り、咀嚼しないように、雪でくるんで丸呑みしたというものでした。チューブの練り歯磨きの味が、
さわやかに感じられたそうです。まさか、プンタ・デル・エステを訪れたことが、アンデス山中の航空機
事故につながろうなどとは思ってもいませんでした。



その後、中務先輩が、人生の進路を模索されていた時、日本の綺麗なファミリーレストランを見る度に、
こうしたレストランが南米にあればいいのにと思われていたそうです。また、テレビなどで、南米の
ニュースが放送される度に、強い関心を示す自分に気づかれたそうです。その結果、誰もやらないのなら、
自分がやればいいと思われ、料理人の道に入られたそうです。



これまでとは異なった道に進むということは、列の後ろに並び直すことに他なりません。若ければ、
諸先輩に抵抗を感じることも少ないでしょうが、先輩と看做される年齢で、徒弟制度が強く残る世界に
身を投じられた日々では、想像を超えるご苦労をされたものと思われます。



料理人としての技能を修められた中務先輩が、50歳を迎える段階で、南米アルゼンチンでチャレンジする
ことを、奥様とお嬢様にお話しされた時、お二人とも、ウルグアイでの楽しかった思い出が背景にあり、
直に賛成されたそうです。



ウルグアイでの思い出が下地となって、アルゼンチンへ進出されることになり、ブエノス・アイレスで
日本レストラン「日本橋」を立ち上げられました。





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