高木一臣先輩に会うことが出来ました。




中務先輩に連絡をとっていただき、高木先輩に、日本料理レストラン「日本橋」で、会うことが出来ました。



いただいた名刺には、ラ・プラタ・ホーチ(LA PLATA HOCHI)と、アルゼンチン海外向けラジオ放送局(R.A.E.
RADIODIFUSION ARGENTINA AL EXTERIOR)の文字がありました。高木先輩は、84歳になられるそうですが、
ラ・プラタ・ホーチでは、まだ、現役として活躍されています。



いろいろなお話を聞かせていただきました。



アルゼンチンに来られたのは、1950年のことだそうです。移住が目的ではなく、1年か2年、見聞を広めるため
の旅行だったそうです。熊野に近い三重県の裕福な家庭の出身で、アルゼンチン行には、ご両親も賛成された
そうです。



ある学生がアルゼンチンのペロン大統領に、日本人受け入れの手紙を出したら、大統領から、準備を進めて
いるという返事が届いたそうです。そうした記事をご覧になられて、アルゼンチンという国に興味を持たれ
たようです。もしかしたら、手紙を書かれたのは、高木先輩ご自身だったのかも知れません。



アルゼンチンの船が日本に来るという情報を得られて、港へ行かれたそうです。船籍は、国旗で示されるそう
ですが、訪問国に入国する際は、相手国の国旗を掲げるのが礼儀だそうです。当時の日本に入る多くの船が
自国の国旗のみで入国する中、アルゼンチンの船は、日本の国旗を掲げていたそうです。MPが飛んで来て、
日本の国旗を降ろすように指示したそうですが、船長は、この船の中は、アルゼンチンだと主張され、MPを
退けられたそうです。



アルゼンチンへの渡航は、貨物船だったそうです。物資を運ぶのが主ですから、旅客の数は10数名と、
限られていたそうです。個室を与えられて、食事は船長と一緒だったそうですから、最上級待遇の船旅
だったようです。



当時の日本は、まだ米国の占領下で、外務省が機能していなかったそうで、旅券は、スウェーデン政府によっ
て発行されたそうです。国籍欄には、英文で日本と書かれていたので、行く先々で不思議がられたそうです。
貨物船は、マニラ、香港を経由したそうですが、戦後間がなく、日本人への反発があったため、船に留まって
いるように言われ、ケープタウンで初めて上陸出来たそうです。



当時、アパルトヘイトとして知られる有色人種差別政策の南アフリカで、2階建てのバスに乗られたそうです。
2階が黒人席、1階が白人席に分かれていて、乗車する際、白人ドライバーから国籍を尋ねられたそうです。
黄色人種は、何処に座るのだろうと思われながら、日本人と応えると、下に座るように言われたそうです。
2階の黒人が、成り行きを見つめていたそうです。
それからは、少しお金がかかっても、バスを避けて、タクシーを利用されたそうです。



アルゼンチン到着後、日本で聴いていたタンゴを想われながら、ボカ地区を訪ねられたそうです。
名曲の印象とは異なり、当時の川は、ヘドロ状だったと振り返られました。何日か、そこでコーヒーを飲み
ながら過していたら、年配男性から話かけられたそうです。それが、カミニートの作曲者との出会いだった
と言われました。



タンゴのお話では、高木先輩の誕生日に、タンゴ演奏で祝ってくれたそうです。また、棺桶屋の弟さん
から、棺桶をプレゼントされたそうです。居心地を試すために中に入るように勧められ、棺桶に名前を
刻んでもらったそうです。必要になったら電話するようにと言われ、数十年経った今も、そのまま保管
されているそうです。



スペイン語を覚えるために、クリーニング店で、下働きしようと思って出かけたところ、いきなり店長に
抜擢されたそうです。日本人が、仕事に忠実だということが、広く知られていたようで、スペイン語など
出来なくても、その内に覚えるもの、と日本人の誠実さ、勤勉さが高く評価されていたそうです。



スペイン語学習の場としては、無料の夜間小学校があり、家庭の事情で学校へ行けなかった人達だけでは
なく、外国人も混じっていたそうです。学歴を偽り、日本では貧しい労働者だったということで通された
そうです。アルファベットを書けたことで、2年生からのスタートとなり、算数が主体の授業では、掛け算
など暗算で出来るような内容で、以後、1週間ごとに進級し、5週間で卒業となり、学校開設以来の超優秀
生徒として称えられたそうです。



その後は、夜間中学で学ばれたそうです。作文の授業で、時計という言葉を使って作文するように言われ、
ほとんどの生徒が、誰々からプレゼントされたという内容だったのに対して、時の概念などを織り交ぜられた
格調の高いものだったため、先生から、日本では何をやっていたのかと問われたそうです。ここでも貧しい
労働者で、教養度も下の下と答えられると、先生は、分かったと言って、机を叩かれたそうです。日本の強さ
の源が、教育にあったことを得心されたようです。同時に、先輩がトップクラスの日本人であることも見抜か
れていたようです。



ある時の授業で、先生から名前の前に、日いずる国のと表現されたことに反発したところ、君は、日本が戦争
に負けたから、そう言うのかと、逆に質問されたそうです。先生は、小さな国の日本が、大国アメリカを相手
に戦い、最後までアメリカを悩ませた国力、精神力を評価されていたそうで、アルゼンチンを、ますます好き
になられたそうです。大学へ進学するように薦められたそうですが、目的がスペイン語の習得にあったため、
丁重に断られたそうです。



高木先輩は、ロシア語を修められていたことからなのか、学徒出陣では、関東軍に配属されたそうですが、
直に、中野学校へ行くようにと、帰国を命じられたそうです。中務先輩から、日本人が知りたかった東洋史
という本の中では、中野学校で一番多かった学生は、東大卒で、2番目が拓大卒だったそうです。ところが、
中野学校へ行く前に、終戦を迎えられたそうです。



在日アルゼンチン大使が、帰任された際、資源が少ない日本とはいえ、将来の大きな潜在能力を認められて、
日本との関係を保っていくために、日本向けのラジオ放送番組を始められたそうです。高木先輩は、昨年退職
されるまで、そのラジオ放送の仕事を41年間続けられたそうです。



ラジオ放送の拘束時間が、午前5時から正午までだったため、ラ・プラタ・ホーチの編集長から、午後の時間
を手伝うように頼まれていたそうです。出社した当日に、先輩を誘われていた編集長が急死されたため、
急遽、編集長として勤務されることになったそうです。



墨絵を描くフランス人女性を取材することになり、女性から自宅にある作品を評価するよう依頼されたこと
から、お付き合いが始まり、その女性と結婚されたそうです。日本への帰国は、フランス経由で、その都度、
ヨーロッパ各国へご一緒に旅行されたそうです。



結婚と言えば、なかなか結婚しない息子に業を煮やした母親が、見合いの積りで、アルゼンチン行の船に、
女性を送り込んだそうです。大阪商船から連絡を受け、港に行かれて、その女性に会われたそうですが、
事情が全く判っていなかったため当たり障りのない話で終わったそうです。お母様からの手紙が届く前に、
船の方が先にアルゼンチンに到着していたそうです。


強盗タクシーに遭われたことがあったそうです。お金を要求された時、運転手が束ねていた長い髪の毛を
掴み、首を絞めたら気絶してしまったそうです。急いで、その場を離れられたそうですが、忘れ物に気が
つき戻られても、まだ気絶したままだったそうです。その後、タクシー運転手の死亡記事が出ていないか、
気になられたそうですが、1週間経っても、そのような記事がなかったため安心されたそうです。何でも、
アルゼンチンでは、罪を犯しても、70歳を過ぎていれば、刑務所に入れられるようなことはないそうです。



お話の中には、報道関係の失敗談もありました。それからは、新聞報道される際の表現に、より注意される
ようになられたそうです。



日本料理レストラン「日本橋」で、アルゼンチン・チリ・ダカール・ラリーに参加される菅原先輩親子両
チームの歓迎会が行われた時、チームのメンバーに、モンゴル出身者がいて、ロシア語を話したそうです。
高木先輩は、数十年前のロシア語だと謙遜されていましたが、中務先輩が、モンゴル人に確認されたところ、
とても立派なロシア語だったと、驚いていたそうです。



1年か2年の積りで渡られたアルゼンチン国が、生活されている内に、より好きになられて、本当に長い間、
ブエノス・アイレスで暮らされています。



60歳を過ぎてから、アルゼンチン俳優協会に所属されるなど、まだまだ、エピソードには、事欠かない先輩の
ようです。小道具には、日本料理レストラン「日本橋」の座敷にある日本刀も一役買ったそうです。



親のような年代の大先輩に会うことが出来、話を交わせるのも、拓大の特色と言えるのかも知れません。
ここでも、アルゼンチンを訪ねた後輩を、快く迎え入れていただきました。



高木先輩、ありがとうございました。いつまでもお元気でご活躍下さい。
中務先輩、今日もお世話になりました。ありがとうございました。





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